ものの値段

 製造業に属していると、どうしても値段というものは原価からはじき出されるものと考えてしまう。その商品を製造するには、これだけ資材費がかかり、プラス人件費がかかってくる。そして、販売費がその上にのってくる。どうしてもそういう見方をしてしまう。友野典男著「行動経済学」を読むと、どうもそういうきちんとした理屈に合わせて値段が決まるのではなく、人間が許容できる範囲の金額で値段が決まるのではないかと思えてくる。
 例えば、立ち食いそばの冷やし変更は、たいてい50円程度だ。どうみても冷たくするのに50円もかかるとは思えない。逆に、夏の暑い最中、50円ぐらいだったら払ってもいいから、冷たいものが食べたいというのが心情ではないだろうか。そう考えると人間の感情が許容できる範囲で値段が決まっているような気がする。
 冷やし中華はどうだろうか。普通のラーメンが400〜500円で売られているのに対して、冷やし中華は、800〜1000円といったところか。この場合、倍の値段を払ってでも、冷やし中華が食べたいとお客が思っていることになる。これも、製造原価的に見るとどう考えても2倍になるとは思えない。冷やし中華は、酢を使用していて夏ばて気味の身体にスムーズに入ってくるし、ラーメンがこってりしているのに対して、あっさりした味付けであることも考慮して倍ぐらいまでは払っても良いかと思うのだろうか。
 自分の場合、立ち食いそばで冷やし変更はするが、冷やし中華の場合、よっぽどでない限り自分家で作って食べようとなってしまう。つまり、少しぼりすぎていないと感じてしまう。
 考えてみれば、値段というものはどうつけても、本当はかまわないのではないだろうか。お客が納得して買ってもらえる値段であればいいわけで、お客が一番納得しやすいのが原価計算なのかもしれない。しかし、オークションみたいにお客が値段を決めるのが本当のような気がするのだが。要は、お客がそれを欲しいと思うかどうかだ。
 最近、酸素入りの水が売られているらしい。テレビのコマーシャルの何度か見た。水の中に入る酸素の量などしれているし、それを飲んだところで身体にいいわけではない。それなのに、この商品が売れてしまう。人間の感情に訴える手法でこの手の商品は売られるが、そのものに価値があるのかないのかの判断は優先されず、ブームやイメージで購入してしまう例かもしれない。
 マイナスイオン商品などもその効果が曖昧にぼやかされ、大手電機メーカーが躍起になって売ったために、ヒット商品になった例もある。
 こうした商品を買う場合、人は、いくらだったら買ってもいいと思うのだろうか。そして、それはどんな判断基準で決めているのであろうか。もしかすると、その答えは直感なのかもしれない。