自己

 V.S.ラマチャンドラン著「脳のなかの幽霊、ふたたび 見えてきた心のしくみ」からの引用。

 「自己」とはいったいどんなものなのでしょうか?自己を定義づける特徴は5つの部分からなっています。第1は、連続性。私たちの体験全体を、過去・現在・未来をともなった途切れのない糸が貫いているという認識です。第2は、これと密接に関係した、自己は一つである、あるいは統一されているという観念です。私たちは、感覚体験や記憶、信念、思考が多様であるにもかかわらず、自分自身を一人の人間、一つのものとして感じます。
 第3は、身体性あるいは所有の意識です−私たちは自分の体に固定されていると感じます。第4は、行為主体としての意識、私たちが自由意志と呼んでいるもの、自分の行動や運命を掌握しているという感覚です。私は自分の指は動かせますが、自分の鼻やあなたの指は動かせません。
 第5に、これがいちばんとらえにくいのですが、自己はその性質上、内省の能力があります−すなわち、それ自身を認識しています。それ自身に気づかない自己というのは矛盾語法です。
 このような自己の諸面はいずれも、脳疾患によってそれぞれ個別にそこなわれています。よって私は、自己は一つではなく複数からなっていると考えています。私たちは、「愛」や「幸福」という言葉と同じように、「自己」という一つの言葉のなかに、さまざまな現象をひとまとめにしているのです。たとえば私が、あなたの右頭頂葉の皮質に(意識が覚醒している状態で)電気刺激をあたえると、あなたはすぐに、天井の近くをただよって自分の体を見おろしているような感じを経験します。つまり体外離脱体験です。自己の身体性−あきらかな自己の基盤の一つ−が、一時的に棄却されるのです。このことは、先にあげた自己の諸面のすべてにあてはまります。どれもみな、脳障害で選択的にそこなわれることがあるからです。

 V.S.ラマチャンドランは、意識について二つの問題があると言っている。それは、主観的体験、すなわちクオリアという問題と自己という問題。クオリア問題とは、脳のなかにある小さなゼリー状のもの(ニューロン)のなかのイオンの流れが、いったいどうして赤の赤さや、スープやワインの風味を生み出せるのだろうか、という問題。この問題は、物質と精神が世界を記述する別々の方法で、どちらもそれ自体で完結していると考えるように、脳の精神的事象と物理的事象もまったく分けて考えた方が良いのではと言っている。