芸術家や小説家の脳

 V.S.ラマチャンドラン著「脳のなかの幽霊、ふたたび 見えてきた心のしくみ」からの引用。

 共感覚に関して、昔から知られ、無視されてきた奇妙な事実があります。芸術家や詩人や小説家−言いかえれば変わったタイプの人たち−に、7倍もよく見られるという事実です。これは、芸術家の頭がおかしいからなのでしょうか?それとも芸術家は、人目を気にせず自分の体験を進んで話すというだけのことでしょうか?あるいは、注意を引こうとしているのでしょうか?(過去にも現在にも共感覚のある著名な芸術家は多数いるので、芸術家にとって共感覚があるというのは魅力的でしょうから。)しかし私はまったくちがう見解を提示したいと思います。芸術家、詩人、小説家に共通しているのはメタファーをつくる技能、すなわち脳のなかで無関係に思えるものどうしを結びつける技能です。たとえばマクベスは、命を語るくだりで「短いろうそく」という言葉を使いました。なぜろうそくなのでしょうか?命が白くて細長いものだからでしょうか。あきらかにちがいます。メタファーは文字どおりに受けとるべきものではありません(統合失調症者の場合は例外ですが、これはまったく別の話です)。しかしある面では、命はろうそくに似ています。はかなくて、ふっと消えてしまうこともあり、明るく燃えているのはほんの短いあいだだけです。私たちの脳は適切な結びつけをしているのであり、言うまでもなくシェイクスピアはその名人でした。それでは、仮定の話を一歩進めて、この「クロス活性化」あるいは「過剰結合」の遺伝子が、紡錘状回や角回だけでなく、もっと広く脳全体に発現している場合を想定してみましょう。先にお話ししたように、この遺伝子が紡錘状回で発現していると、その人は低次の共感覚者になり、角回/TPOで発現していると高次の共感覚者になります。しかし、もしこの遺伝子があらゆるところに発現して、脳全体にもっと大規模な過剰結合があったら、その人は、メタファーをつくる能力、すなわち一見無関係なものごとを結びつける能力をもちやすくなるでしょう(「抽象的」概念と呼ばれるものも、結局のところ、脳の地図に表象されるのですから)。

 数字を表象するところ、色を表象するところ、ものの形を表象するところなど、脳では、別々の場所で行われているらしい。数字を見ると色を同時に感じる、例えば、5という数字を見るとその数字が黒で書かれていても、赤く見えてしまう。このような症状を共感覚というようだ。数字と色、数字と音など比較的低次な共感覚は、引用中に書かれているように、紡錘状回で「過剰結合」をもつ人に現れる。高次の共感覚者は、曜日などの抽象概念と色を結べ付けたりできるらしい。V.S.ラマチャンドランの説によると芸術家はこの高次の共感覚者よりも多くの「過剰結合」をもっていることになる。引用では、小説家を例に挙げているが、音楽家や画家の方がもっとわかりやすいような気がする。彼らは、音や抽象的な絵で、物や感情などを表現できる。しかし、それらの作品を聞いたり見たりして共感できるのはなぜなのだろう。一度その感覚を提示されるとそれをひとつのクオリアとして記憶できるからなのだろうか。生み出すことと覚えることは違うと言うことなのか。何れにせよ、凡人の我々の脳には見られない現象だ。