笑い

 V.S.ラマチャンドラン著「脳のなかの幽霊、ふたたび 見えてきた心のしくみ」からの引用。

 私は、痛覚失象徴と呼ばれる、奇怪なシンドロームに出会ったことがあります。驚いたことにこの患者は、痛覚刺激に対して「痛い!」と反応せずに、声をあげて笑うのです。(中略)
 笑いは、「あれはまちがい警報ですよ」と知らせるための、自然に備わった方法だというのが私の考えです。なぜそれが進化的な観点からみて有用なのでしょうか?笑いというリズミカルな断続音は、遺伝子を共有する近縁者に、「このことに貴重な時間や労力を浪費するな。あれはまちがい警報だ」という情報を伝えるために進化した、と私は考えています。笑いは自然に備わったOKサインなのです。
 しかしそれが痛覚失象徴の患者と、どんな関係があるのでしょう?それをいまから説明します。その患者の脳をCTスキャンで調べたところ、頭の側面にある島皮質と呼ばれる部位に近いところに損傷がありました。島皮質は内臓や皮膚から痛覚の信号を受けとっています。つまりここは生の痛覚を経験する部位なのですが、痛みは多層性であって、一元的なものではありません。メッセージは島皮質から扁桃体に送られ、次いでほかの辺縁系に、そして前部帯状回に送られて、痛みに対する情動的な反応が生まれます。私たちはこのようにして、痛みのつらさを経験し、適切な行動を起こします。したがってこの患者の場合は、おそらく島皮質は正常で、痛みを感じることはできるが、島から辺縁系や全部帯状回につながる配線が切れてしまっている。そのような状況は、笑いやユーモアに必要とされる、二つの重要な構成要素を生み出します。脳の一部位が危険信号を出しているのに、次の瞬間には、別の部位−全部帯状回−に確認の信号が入らないため、「これはまちがい警報だ」という結論が導かれるのです。そこで、患者は笑いだし、くすくすととめどなく笑いつづけます。これと同様のことは「くすぐり」でも起こります。くすぐりは、いわばおとなのユーモアのための荒削りな「実演」リハーサルなのかもしれません。おとなが脅すように両手を広げながら、子どもの体の敏感な部分に近づいてきて、何をされるのかという恐ろしさがふくらんだところで、それが一気に「こちょこちょ」というやさしい刺激に落着する。これは成熟したおとなのユーモアと同じかたちをとっています。潜在的な脅威がふくらんで、それがしぼむという形式です。

 痛覚失象徴の患者を例に、笑いのしくみが述べられている。また、痛みも多層性であり、島皮質で感じ取った刺激を情動系にまで伝達し判断していることになる。われわれは、瞬時に痛みを感じているように思っているが、脳のいくつかの部位を通って初めて感じることができるらしい。現在、歯医者さんに通っているので、治療時の痛みを感じたくはないが、この患者のように笑ってしまうことになると治療が非常に難しくなるのではないかと心配してしまう。