統治客体意識からの脱却

 丸田隆著「裁判員制度 (平凡社新書)」(平凡社新書)からの引用。

 私たちは私的生活に忙しく、地域政治はもちろんのこと、国政においても、ほとんど直接関わりを持たない。ましていわんや、裁判所などはできれば関わりを避けたい場所であるかもしれない。そこに自分が巻き込まれるなんてことは、想像もしたくない。しかし、裁判所では毎日、私たちの生活や生き方に関する重要なことが議論され、決定されている。そこでは私たちの仲間の財産や、自由や、生命に関わることについて決定がなされている。しかし、私たちはそれに関与しない。誰が関与するのか。私たちはそれを、いわゆるその道の「プロ」に任せている。明確な「委任」の形式はとっていないが、私たちは多くの国民が自ら決めるべきことをこれら「プロ」に依託している。(中略)
 しかし、いま、こういう「依託民主主義」の是非が問われているのである。国民の司法参加は、「意見書」(2001年の司法制度改革審議会の「意見書」)が述べるように、「統治客体意識から統治主体主義へ」の転換を促すものである。だからもう「依託民主主義」の時代ではないのである。私たち「私人」が「公的なこと」へ関わる決意と責任が求められている。それは一方で「官」から「民」への決定権と責任のシフト(移管)を含み、他方で「民」から「公」への自発的関わりモメント(契機)を意識させるものである。それは、あらゆる統治領域における市民の参加を意味する。だからこの場合の「市民」とは、「国民主権の担い手として、公共的関心を持ち、自己責任を持って社会に参画する人間のこと」を言うことができる。

 言いたいことはよくわかるのだが、これは非常に難しい改革になる。日本の社会の場合、法制度のみそうなっているわけではなく、すべての面で官主体の社会が成り立ってしまっている。
 それと、「官」とか「民」とか対立軸をたてて、話しを進めることが多いが、王政の時代と違い、今の民主主義では、「官」も国民であり、「民」でもあると思う。従って、ここで重要なのは「民」の意識の改革であって、国の組織の弊害ではないと思う。
 国民の代表として国会に送られている国会議員にしても、他の国と比較して決してレベルが高いとは思えないし、今、国会で議論されている内容が、本当に重要なのか疑問を感じることも多々ある。例えば、少子高齢化対策にしても、人口を増やす方向でしか議論がなされていない。人口減少する社会で、最適な方法を模索するといったことがおこなわれても良いと思う。環境面で大量生産社会からの脱却が求められているにもかかわらず、それを踏まえた議論がなされていないと思う。
 「官」という組織を「官」を含めた「民」の社会で有効に利用できるようにするにはどうするべきかを考えるべきで、それを実現させるためには、「統治客体意識から統治主体主義へ」の転換が必要なのだと思う。統治客体意識からの脱却は、もっと身近な生活から改善していかないと達成は難しいと思う。
 それと同時に、われわれ「民」は、的確な判断が出来るようにならなければならない。そのために必要なのが、その道の「プロ」である。その道の「プロ」の意見や資料もなく、ただ「民」が判断しても的確な判断が生まれるとは思えない。