放射能の発見

 サイモン・シン著「ビッグバン宇宙論 (上)」からの引用。

 原子を理解しようという試みが始まったのは、化学者と物理学者が「放射能」という性質に興味をもったときのことだった。放射能が発見されたのは、1896年である。その後、ウランなど重い原子のいくつかは「放射能」をもつことが明らかになった。放射能とは、放射という形で、きわめて多量のエネルギーを自発的に出す能力のことだ。しかしそれからしばらくのあいだは、この放射の正体は何なのか、なぜ放射が起こるのかはわからないままだった。
 放射能研究の最前線にいたのが、マリーとピエールのキュリー夫妻である。二人は新しい放射性元素をいくつか発見したが、そのなかでもラジウムは、ウランより百万倍も大きな放射能をもっていた。ラジウムから出た放射線は周囲の物質に吸収され、放射線のエネルギーは熱に変換される。実際、1キログラムのラジウムは、30分間で1リットルの水を沸騰させるだけのエネルギーを生み出す。いっそう印象的なのは、この放射能はいつまでも弱まらないことだ。1キログラムのラジウムは、何千年ものあいだ30分間ごとに水1リットルを沸騰させ続けることができる。ラジウムのエネルギーは、爆薬にくらべれば非常にゆっくりと放出されるが、最終的には同じ重量のダイナマイトよりも百万倍も多くのエネルギーを出すことになる。
 放射能の危険性はそれから長らく十分に理解されず、ラジウムなどの物質は素朴な楽観主義のもとで観察されていた。USラジウム社のセービン・フォン・ソショッキーは、ラジウムは家庭用発電機として使えるようになると予測したほどだった。「各家庭にラジウムだけで照明された部屋があるような時代が来ることは間違いない。壁や天井に塗られたラジウムのペンキから放射される光の色調は、柔らかな月光のようになるだろう」
 キュリー夫妻は放射能による障害に苦しんだが、それでも二人は研究を続けた。二人が記録を取っていたノートは、長年ラジウムに曝されたために放射能を帯び、現在は鉛を貼った箱に保存されている。マリーの手はしばしばラジウムの粉塵に覆われたため、彼女の手が触れたノートのページには、目に見えない放射能の跡が残ることになった。ページのあいだに写真フィルムを挟めば、実際に彼女の指紋を取ることができる。マリーは結局、白血病で死んだ。
 キュリー夫妻が狭苦しいパリの実験室で払った多大な犠牲は、原子内部のしくみについて、いかに何もわかっていないかを浮き彫りにするものだった。(中略)キュリー夫妻は、いくつかの原子の内部には膨大なエネルギー源があることを明らかにした。そして周期表は、その現象を説明することができなかったのだ。原子内部の深いところで何が起こっているのかについて、何か手がかりになりそうなものをもつ者はいなかった。19世紀の科学者は、原子を単純な球としてイメージしていたが、放射能を説明するためには、原子はもっと複雑でなければならなかった。

 いまは、放射能の危険性がある程度理解されているので、キュリー夫妻のように放射性物質を無防備に取り扱うことはないだろう。子どもの頃、キュリー夫妻の自伝を読んだ(いや読まされた)方は多いのではないだろうか。実をいうと自分もその一人で、そのときどんなことを感じたかは覚えていない。ただ、キュリー夫妻は化学の分野で大きく貢献した。そして、悲劇的な最後をむかえられた。ということだけが頭に残っている。
 原子の構造がどういうものなのかについて、この時点でわかっていなかったことを初めて知った。放射能が発見される数十年前に、周期表が出来て、科学者たちは物質の構成要素はすべてわかったと公言していたそうだ。放射能が発見されるまでは、化学反応で物質はでき、元素は元素で変化しないというのが常識だったのだろう。従って、原子は単純な球で良かった。
 しかし、原子がエネルギーを放出するという現象は、放出する元素の中で何かが起こっているわけで、単純に原子を球と扱ったのでは説明がつかない。そこから、科学の発展がまた始まるのである。