太陽中心モデルが広まっていった理由

 サイモン・シン著「ビックバン宇宙論」からの引用。17世紀にガリレオが「天文対話」によって太陽中心モデル(太陽を中心に地球など惑星が動いている説)を多くの一般市民にひろげた後、18世紀になって、太陽中心モデルは天文学者たちに広まっていった。

 太陽中心モデルは、18世紀が進むにつれて天文学者に広く受け入れらていった。そうなった理由のひとつは、望遠鏡の精度が高くなるにつれて観測上の証拠が増えたからだが、もう一つの理由は、モデルの背後にある物理現象を説明するための、理論上の進展があったからである。また、それとは別の大きな要因として、上の世代の天文学者たちが死んでいったことが挙げられる。死は、科学が進歩する大きな要因のひとつなのだ。なぜなら死は、古くて間違った理論を捨てて、新しい正確な理論を取ることをしぶる保守的な科学者たちを片づけてくれるからだ。彼らが頑固になるのも無理はない。生涯かけて一つのモデルの上に仕事を積み重ねてきたというのに、新しいモデルのせいでそれを捨てなければならないという恐れが出てきたのだから。20世紀最大の物理学者の一人であるマックス・プランクはこう述べた。「重要な科学上の革新が、対立する陣営の意見を変えさせることで徐々に達成されるのは稀である。サウロがパウロになるようなことがそうそうあるわけではないのだ。現実に起こることは、対立する人々がしだいに死に絶え、成長しつつある次の世代が初めて新しい考え方に習熟することである」

 当然の事ながら、「対立する相手を殺せばよい」と著者は言っているのではない。新たなモデル(この場合、学説など)が対立するそれまでのモデルに切り替わるためには、時間が必要であり、その必要な時間は世代が交代するくらい長いものだということだろう。これは、議論だけではなかなか解決できない対立が如何に多いかを示している。
 特に、地動説と天動説の対立は、宗教が絡んでいた。また、われわれは、普通に空を見ている限り天が回っているように見えるという事実がもとになった常識が何世紀もの間、人間の心の中を支配していた。これらの理由でその対立は、何世紀も続いていたことになる。
 常識と科学から生みだす新事実や新モデルとの対立は覆おうにして、その解決に時間がかかるものだと思う。特に、イデオロギー的な視点が入るといつになったら解決されるのだろうと思ってしまう。
 予防原則とリスク管理との対立は、ここまで大げさではないにしろ、似たような構図があるように思える。時として、市民側の常識が変わるのを待つしかないと思ってしまうのだが、化学物質への対応や環境問題対策など、まったなしで対応が求められている中、こういった対立軸をどう解消していくのが良いのか。もう少し考えてみたい。リスクコミュニケーションがその一つの方法であることは確かだが、議論を進めるルールとか法とかが、きちんと出来上がらないとただ、議論するだけでは解決しないような気がする。