真実でない常識

 ここのところ、白田秀彰著「インターネットの法と慣習 かなり奇妙な法学入門 [ソフトバンク新書]」から引用をつづけている。本来なら本書の確論であるインターネットを活用するためにはどういった法整備が必要かといった議論に入るべきなのだが、ここで、ちょっと寄り道をする。どうして寄り道してしまうかというと、サイモン・シンの新作「ビックバン宇宙論」を読み始めてしまったからだ。もともと浮気性癖があるのだが、思いついたときにメモしておかないと忘れてしまうことが寄り道の理由かもしれない。
 サイモン・シンの本を読んでいると、多くの、しかし歴史上生まれたヒトの数からすると非常に微少な天才たちのおかげで、今の常識が成り立っていることが述べられている。ローマ時代の世界観、中世の世界観がどんなに間違った常識の上に成り立っていたかが、端々に登場する。そして、多くの天才たちは、その間違った常識のもとに、悲劇の道を歩むことになる場合が少なくない。女性というだけで悲惨な最期を迎えた数学者や同性愛者であることで業績を評価されなかった暗号解読者、天動説という常識があるために、一生涯評価されなかったコペルニクスなど数えればきりがない。その時代の常識は、時間を経てみたときまったく違っていることがあることを歴史が証明している。
 今の時代もインターネットが普及し、それ自体があることが当たり前になった未来から見るとバカげた常識がたくさん存在している時代になっているかもしれない。
 慣習や法を常に見直していかなければならない理由がそこにあるような気がする。

 地球中心の宇宙論が主流になった背景には、自己中心的なものの見方も影響していたのかもしれない。しかし、アリスタルコスの太陽中心の宇宙ではなく、地球中心の宇宙が選び取られたのには、それ以外にもいくつか理由があった。太陽中心の世界観が抱えていた基本的な問題は、「まったく馬鹿げて見える」ということだった。一方、地球は動かず、そのまわりを太陽が回っているのはごく自然なことに思われた。要するに、太陽中心の宇宙観は常識に反していたのである。しかし優れた科学者は常識に引きずられてはならない。なぜなら常識は、隠れた科学的真理とは何の関係もないことがあるからだ。アルベルト・アインシュタインは常識というものを厳しく批判し、「18歳までに身につけた偏見の寄せ集め」だと言った。


サイモン・シン著「ビッグバン宇宙論 (上)」P.34からの引用

 宗教が世の中を支配していた時代に比べると、今の日本の常識はたいぶましにはなっているのかもしれない。しかし、常に時代遅れの考え方や利権を守るためだけに邁進する勢力によって、社会の歪みが常に生まれていることも認識しておくべきなのかもしれない。常識とは常に整合され新しくなっていかなければならないものだと思う。