判例主義・アメリカの場合

 白田秀彰著「インターネットの法と慣習 かなり奇妙な法学入門 [ソフトバンク新書]」からの引用。

 アメリカでは、イギリスでの「法の支配」の原則がそのまま残った。法もイギリスの法=コモン・ローをほとんどそのまま受け継いだ(ルイジアナ州はフランスから獲得したので大陸法系)。でも、イギリスと違って国が出来上がるときにガッチリと書かれた憲法を作った。一方、イギリスは現在も「これ」と書かれた憲法を持たない不文憲法の国だ。
 アメリカは、もともと13に分かれたイギリス植民地だったのが、それぞれ実質的に独立国になった後、まとまって連邦国家になった。現在50の州がアメリカには存在するけど、それぞれ独立して州憲法、州の司法システム、そして独自に発展したコモン・ローを持っている。イギリスのところで書いたように、コモン・ローは常識とか住民意識とかに大きく依存しているから、自分たちと常識を共有できないほど遠いところの人たちの決定に従うつもりはないわけだ。

 13の植民地からアメリカ合衆国が誕生する過程は、まさしく、EUが今やっている統合に他ならない。両者に違いがあるとすると、歴史的背景と国として存続している時間の長さだろう。また、大陸法が基本となっている国が多いか、英米法が基本になっている州が多いかの違いもある。
 陪審制度に関して注釈に記述があるので、紹介しておく。

 陪審制がとられている理由も、自分たちのまわりに住んでいる人たちの常識に照らして裁判を受けなければ恐いという感覚があるから。その背景には、イギリスであれば、裁く側が大抵の場合、貴族あるいは準貴族で、裁かれる側が庶民であったとか、アメリカであれば、裁く側がたいていの場合、イギリス本国から派遣されてきた連中で、裁かれる側がアメリカ生まれの連中だったとか、そういう事情がある。裁く/裁かれる人たちの常識的判断で諮ってもらわないと安心していられない。誰だって自分と対立している集団の法で裁かれたくないでしょ?だから、合衆国憲法では同じ身分集団による陪審は「権利」として揚げられている。一方、大陸法だと、法律は社会集団に対して、倫理的に・中立に・一般に作成してある。だから、問題が法律の定義に合致すると、ただちに一連の法律が動作し始める。あるプログラムが動作し始めるとき、人々の判断に依存するのか、条件に合致したとき自動的に処理が進行していくのか、という違いと言えるかな。

 日本でも、陪審制が導入される予定だが、大陸法の日本で陪審制が定着するかどうかは疑問のような気がする。まして、国民全員が中流意識の国に身分の差異はあまり感じられないのではないだろうか。最も、小さな政府を実現するために躍起になっている政府のおかげで、国民の格差は二分化してきているのも事実だが、それを身分の相違ととらえることはないだろう。なぜ今の時期に陪審制なのかよくわからない。

 さて、ここからが日本人にとって不可思議に思われるだろうこと。州は、独自の法と司法システムを備えているが、連邦全体で統括した方がより望ましい事柄がある。たとえば、軍事とか外交とか通商とか。そこで、合衆国を構成(constitute)するとき、連邦政府がどのような構造をとって、どのような仕事をするかを決めた。これが連邦憲法(Constitution)だ。で、コモン・ローは共同体の常識を基礎としていることから、コモン・ローに関する事項は州が権限を持つことになっている。
 また、連邦政府なんていうアヤしい連中に広範な権限を与えることは危険だと考えられたので、連邦政府の権限は、憲法に書かれた範囲に限定された。さらに、連邦政府が侵害してはならない、合衆国の国民としての基本的権利が権利章典として追加された。ここが大事。日本で憲法というと「単に一番エラい法律」という一般的な理解があるけれど、これは、「政府を拘束する最強の鎖」と考えるのが正しい。

 アメリカの大統領が、国民の大統領支持率を非常に気にするのも、こういった背景があるからなのだろう。日本の場合、国民の首相支持率を気にしているのは、メディアや国民であって、首相や政府ではない気がする。アメリカのように憲法が政府を拘束する最強の鎖に日本の憲法はなっているのだろうか?そして、その憲法は今の時代を見据えたものになっているのだろうか。何となくなっていないような気がする。推測ですが・・・。