文法遺伝子の定義

スティーブン・ピンカー著「言語を生みだす本能〈下〉 (NHKブックス)」からの引用。

 ニューロンを導き、軸索と標的ニューロンを結べつけ、つながりを維持する分子とは、タンパク質である。タンパク質の構造は遺伝子が決定する。遺伝子とは、染色体のなかのDNAの鎖上に並ぶ塩基列である。遺伝子は、複数の「転写要因」と、その他の調節分子によって発現する。転写要因や調節分子は、DNA上のどこかの塩基にとりつき、隣の遺伝子単位をRNAに転写する。これが翻訳されて、タンパク質が合成される。一般に、こうした調節分子自体もタンパク質である。したがって、生命体が形成される過程は、DNAがタンパク質を作り、そのタンパク質の一部が他のDNAと作用しあってさらにタンパク質を作る、といった具合に複雑にからみ合っている。タイミングのわずかなずれや、あるタンパク質の量のわずかな違いが、生命体の形成に大きな影響を及ぼしうる。
 つまり、ある単一の遺伝子が生命体の特定の部分を作るのはまれである。むしろ発達のどの段階で、どのタンパク質を放出するかを特定する、といったほうがいい。(中略)脳の回路形成はとくに、多数の遺伝子と複雑にからみ合っている。ニューロン表面のある分子は単一の回路にだけ使われるのではなく、ほかの分子と特定の組合せを作って、さまざまな回路で使われる。(中略)神経科学者の推定によると、脳と神経組織の形成に関与する遺伝子は約三万(ヒトのゲノムの大半)に上る。

 さらっと、DNAと生命体形成のしくみを説明している。途中が飛ぶのでちょっと理解しにくいが、言いたいことは、複数の遺伝子が関与して生命体が形成され、脳に関しても例外ではないと言いたいのだろう。

 ここまでくれば、文法遺伝子の正体が定義できる。ある種のDNA鎖が、特定のタンパク質の遺伝暗号を持つか、または、発達の特定の段階で脳の特定の部位においてタンパク質形成遺伝子の転写を作動する。こうしてできたタンパク質がニューロンを導き、惹きつけ、結合して回路を形成する。この回路が、学習によって強化されたシナプス群と組み合わされて、ある種の文法的課題(例えば、接辞や単語の選択)を演算によって解決するために必要な言語回路を形成する。この現象の出発点になったDNA鎖が文法遺伝子である。

 では、文法遺伝子は見つかっているかというと、まだ見つかっていないみたいだ。

 いまのところは、複数の文法遺伝子が存在することを示唆する事実が見つかった、という段階にとどまっている。ここでいう文法遺伝子とは、文法のさまざまな部分を支える回路の発達に、もっとも特定的に影響を及ぼすと見られる遺伝子群、という意味である。

 本書が出版されたのが、1995年であるから、今から11年前である。したがって、現段階では、文法遺伝子が見つかっているかもしれない。しかし、今読んでいるのは第16版で、2006年に印刷されたものだ。もし、新しい事実が見つかっている場合は、訂正が入っている可能性があるが、注釈もついていないことから、まだ見つかっていない可能性の方が高いと思う。

[訂 正] 
 文法遺伝子はまだ発見されていない可能性が高いと書いたが、インターネットで調べたところ、2001年に英国のウェルカム・トラスト・ヒト遺伝学研究センター、およびその共同研究チームが、FOXP2という遺伝子を発見したらしい。
 その内容に関しては、言語に関わる遺伝子を初めて同定会話・言語と遺伝子(FOXP2)で見ることができる。