言語獲得の臨界期

 スティーブン・ピンカー著「言語を生みだす本能〈下〉 (NHKブックス)」からの引用。

 周知のとおり、幼児期に母語を覚えるのに比べて、大人になってから外国語を覚えるのははるかに難しい。大人の大半は、外国語を完全にマスターできずに終わる。とりわけ音素は身につかず、なまりが残ってしまう。間違いが「化石化」して、いくら教わっても訂正されても直らないことも多い。もちろん個人差は大きい。覚えようとする努力、覚えたいという姿勢、対象言語に触れる度合い、考え方の上手下手、才能などによって違いが生じる。しかし、環境や才能に恵まれ、人一倍の努力をしてさえ、限界があるように見える。

 自分がいい例なのかもしれない。英語力は中途半端、ドイツ語は学生時代に拒否して以来まったく受けつかない。英語に関しては、大人になって何度か努力したこともある。ハリーポッターの第一巻を英語で読んでみたり、100語でスタート英会話を半年間まじめに見たこともあった。今も、「Get Up English」というブログを毎日見たりもしている。しかし、頭に入ってこないのだ。歳をとるにつれて、この傾向は強くなってきている。

 思春期以降に移住した人が、もっともいい例になってくれる。才能があり、熱心に努力した結果、外国語の文法のかなりの部分はマスターできたが、音声パターンは身につけなかったという人がいる。10代でアメリカに移住したヘンリー・キッシンジャーは、ドイツ語なまりが抜けなくて、マスコミにからかわれている。数歳下の弟には、なまりはない。ウクライナに生まれ、ポーランド語を母語とするジョセフ・コンラッドは、20世紀英国を代表する作家の一人とされるが、なまりが強く、友人でさえよく聞き取れないほどだったという。

 特に、音素の獲得は非常に難しいと思う。我々日本人がいくらナチュラルな英語を話しているなと思っていても、イギリス人やアメリカ人にしてみれば、かなりなまりがあるように聞こえるのだろう。中国人や韓国人の人が、日本語を話しているのを聞いたときと同じなのだろうと思う。まれに、流ちょうな日本語を話す人だなと思う韓国人と出会っても在日の人だったりする。もっとも、日本の標準語は、本当の日本語なのかといわれると違う気もする。山形弁や津軽弁、そして関西弁など昔から地方に伝わる方言が本当の日本語のような気がするのである。

 母語についてはどうだろうか。母語を獲得しないまま思春期に達する例はまれだが、少数ながらある実例はすべて、同じ結果を生んいる。大人になるまで手話に触れなかった人は、子どものころに覚えた人ほどうまく手話を使いこなせない。奇矯な親に、思春期を過ぎるまで閉じこめられた都会の野生児のなかには、単語だけを身につけた例がある。ロサンゼルス郊外で、13歳半で発見された「ジニー」は、ピジンのようにぎこちないながら、文が作れるようになった。しかし、文法を完全に身につけるにはいたらなかった。
 一方、イザベルは、脳損傷があり言葉を話さない母親と一緒に、祖父の家に閉じこめられていたが、解放されたのが六歳半のときだった。一年半後、イザベルは1500〜2000の単語を覚え、複雑な文を正しく発語するようになっていた。イザベルは、ほかの子と同様にうまく英語を獲得していくだろう。まだ幼いうちに習得が始まったおかげで、追いついたのだ。

 ある時期までに言語とふれあわないと、言語の獲得は難しいらしい。ジニーとイザベルとの違いは、解放されたのが13歳半と6歳半の違いだ。

 以上を総合すると、6歳までは確実に言語を獲得できるが、それ以後は確実性が徐々に薄れ、思春期を過ぎると完璧にマスターする例はごくまれになる。学齢に達するころから脳の代謝活動やニューロンの数が衰退するとか、代謝活動やシナプスの数が思春期前後に最低レベルに達して以後横ばいになるとかいった成熟に伴う変化が、原因として考えられる。子どもは脳の左半球に損傷を受けても、言語を習得したり回復することができる。手術によって除去した場合でさえ、(正常なレベルにはやや及ばないが)習得、回復が可能である。大人が同様の損傷を受けると、生涯、失語症から回復できないことが多い。

 V.S.ラマチャンドランは、「脳のなかの幽霊」のなかで、大人の脳でも可塑性があることを示している。幻視をもつ人の脳では、体内地図の書き換えが、起きているというのである。したがって、思春期を過ぎると脳が完全に固定化し、可塑性を失うわけではないらしいのだが、言語獲得ともなるとピンカーがいうように、非常に難しいのだろう。
 そういえば、文部科学省が小学校の授業に英語を加えるという話が話題になっていたが、小学校よりも幼稚園の方が効果が高くなるのではないだろうか。この本を読んでいるとそう思ってしまう。