文法は、耳と口と脳を結びつける仲介者

 スティーブン・ピンカー著「言語を生みだす本能」より引用。

 人間の思考はさらに複雑で、しかも、人間の口は、単語を一度に一つずつしか発音できない。複雑な思考を順序正しい単度列の形で伝達するために、脳は見事に設計されたルールを駆使する。科学はいま、その規則性を解明する緒についたばかりである。

 設計されたルールとは、「Xバーは、何れかを先にする、ヘッドXと、任意の数の役割担い手で構成される。」のこと。「すべての言語に共通する句の構造」を参照にして欲しい。「人間の口は、単語を一度に一つずつしか発音できない」ことに関しては、いずれコメントできそう。著者が書いている通り、著者が言っているようにこれら言語を生み出す本能のしくみは、まだ発展途上状態にあると考えておく方が良いと思う。「脳のなかの幽霊」のなかで、V.S.ラマチャンドランは、こういっている。

 私が言いたいのは、今日の神経科学はファラデーの段階であり、マクスウェルの段階にはないということだ。

 つまり、ラマチャンドランは、脳に係わる科学は、未だ定性的な段階にあり、脳に関する形式理論を構築できる段階にないといっている。もちろん形式理論をたてて、脳の仕組みを解明していこうという試みを否定しているわけではない。ラマチャンドラン自信は、まだ直感による試行錯誤の段階だといっていて、その方法がいいのではないかと考えている。言語を生み出すしくみについてもまだ、過程段階から脱してはいないことを理解しておく必要がある。

 統語論でいう痕跡、格、Xバーなどの手続きは、色も臭いも味もないが、これらは(あるいは、これらのようなものは)人間が無意識に行う精神生活の一部となっているに違いない。

 いま、扱っている部分は、われわれが無意識でおこなっている領域のはなしだといっている。
無意識に行っていることを理論的に説明し、それを証明することは非常に難しいと思う。特に、著者ピンカーは、各言語共通をうたっているので、意見の整合はかなり難しいのではないか。

 文法は、耳と口と脳というまったく異なる三つの装置を相互に結びつける仲介者なのだ。どれかひとつだけを反映するのではなく、独自の抽象的論理を持っているに違いない。
(中略)
 文法構造の一部は、言語習得のメカニズムの、両親の発する雑音を聞いて、そこから意味を取り出す部分に、最初から組み込まれていると考えるほかない。

 文法が無意識の産物だとすると、耳と口と脳を結びつける仲介者である可能性は、非常に高いと思う。仲介者が普遍文法なのかどうかには、もちろん異論があるかもしれないが、一定のルールがそこにあるのではないかということに関しては誰もが思うのではないか。