普遍的な心的言語の可能性

 昨日の続き。スティーブン・ピンカー著「言語を生みだす本能」からの引用。

 人間は、英語や中国語やアパッチ語で考えているのではない。思考の言語で考えている。思考の言語は、これらすべての言語に多少似ているかもしれない。概念に対応するシンボルがあり、ペンキの例で見たように、誰が誰になにをしたかに対応するシンボル配列があると想像される。しかし、どれか一つの言語と比べてみると、心的言語のほうがある面で豊かであると同時に、べつの面で貧弱なはずである。英語の一つの単語(例えばスツール)に複数の概念シンボルが対応するという意味では、心的言語のほうが豊かといえる。また、ラルフの牙と牙一般のように論理的に別のものの概念を区別したり、「片足に黒い靴をはいた金髪で長身の男」と「その男」のように同一人物を指す複数のシンボルを一つにまとめたりする手続きも備わっているはずだ。一方、心的言語のほうが貧弱な面もある。文脈のなかでしか特定の意味を持たない単語や構造(たとえば、aとthe)は存在しないし、単語を発音するのに必要な情報や、単語を文法どおりに並べるための情報も不要である。さてそこで、英語の話し手は、英語よりもある面で豊か、ある面で貧弱な疑似英語で考え、アパッチ語の話し手は、アパッチ語よりある面で豊か、ある面で貧弱な疑似アパッチ語で考える、とはいえるかもしれない。しかし、その疑似言語が心的言語として推論を可能にするものであるかぎり、疑似英語と疑似アパッチ語は、それぞれが英語、アパッチ語と似ているよりはるかによく、互いに似かよっているはずである。それどころか、同一である可能性が高い。すなわち、普遍的な心的言語である。
 となると、ある言語を知っているというのは、心的言語を単語の列に、単語の列を心的言語に翻訳するすべを知っている、という意味になる。言語を持たない人間も心的言語は持っている。赤ん坊や人間以外のさまざまな動物も、単純な形であれ心的言語を持っていると考えられる。赤ん坊の場合とくに、母語を翻訳する心的言語を持ち合わせていないとしたら、なぜ母語を覚えられるのかがわからなくなる。母語を覚えるということがなにを意味するのかさえ、はっきりしなくなるのだ。

 スプレーの例とは、下記の例をいっている。

 次の四つの文を人間は同じことだと理解できる。

  • サムがペンキを壁にスプレイした。
  • サムが壁をペンキでスプレイした。
  • ペンキがサムによって壁にスプレイされた。
  • 壁がサムによってペンキでスプレイされた。

 この四つの文章はそれぞれ違った単語の配列でできている。それでも同じことを人間が理解できるのは、四種類の単語の配列以外の表現で、共通する一つの出来事を理解していることになる。例えば、
(サムはペンキをスプレイする)結果(ペンキがつく[壁に])

 無限にある文章表現を片っ端から覚えている、というのは無理があると思う。何らかのルールに従って脳のなかに情報が蓄えられ、思考するのであろう。著者は、この思考を行っているのは、母語ではなく、普遍的な心的言語だといっている。そして、それは、それぞれの言語に似ているかもしれないが、それ以上に共通の部分が多く、おそらくどの民族も同じ心的言語を使用しているはずだと言っているのである。
 現在、もう少し先を読んでいるのだが、この辺からだんだんわからなくなってきている。納得できる材料が不足しているのと、英語を例としているため、日本語とのギャップが激しい。次週は以降どう扱っていくべきか、週末考えたい。