数学的証明と科学的証明

 サイモン・シン著「フェルマーの最終定理」から。

 典型的な数学的証明は、一連の公理から出発する。公理とは、真であると仮定された命題、あるいは真であることが自明な命題のことである。そこから一歩一歩論理的な議論を積み重ねていって結論にたどり着く。公理が正しく、論理が完全であれば、結果として得られた結論を否定することはできない。こうして得られた結論が定理である。
 数学の定理は、この論理的なプロセスの上に成り立っており、一度証明された定理は永遠に真である。数学における証明は絶対なのだ。

 数学的証明は、公理からスタートする。この公理は、真であると仮定された命題、もしくは真であることが自明な命題だという。ここで、命題とは何かというと「真偽を判定することのできる文、またその内容。」と広辞苑に載っている。つまり、一度真偽が検討されて真であることが証明されている内容ということだろう。そこから、論理的に議論された結論が定理となる。従って、数学的証明は絶対となる。しかし、命題も人間が真偽したものであるから絶対と言うことは無いような気もする。一方、科学的証明に関しては、

 科学においては、ある自然現象を説明するために仮説が立てられる。その現象を観察した結果が仮説とうまく合っていれば、その仮説にとってプラスの証拠となる。さらにその仮説は、単に既知の現象を説明するだけでなく、他の現象を予測しなければならない。この予測を試すために実験が行われ、実験が成功すれば、これもまたその仮説を支える証拠とされる。こうして集められた証拠が圧倒的になったとき、この仮説は科学理論として受け入れられるのである。
 しかし、科学理論を数学理論と同じレベルで完全に証明することはできない。手に入れられるかぎりの証拠にもとづいて、「この理論は正しい可能性がきわめて高い」と言えるだけなのだ。
いわゆる科学的証明は観察と知覚をよりどころにしているが、そのどちらもが誤りをまぬがれず、そこから得られるものは真実の近似でしかないのである。

 こちらはその通りだと思う。どんな科学理論も「正しい可能性がきわめて高い」としか言えない。そこには、絶対は無いのである。数学では、数字にしろ、虚数にしろ、微積分にしろ、人間が創り出した道具を利用した学問であり、自然を相手にする場合は、当然の事ながら科学の領域に入っていく。従って、数学は、科学で使用されることはあるが、数学の中に科学は存在しない。自然は、当然人間によって創られたものではないから、自然の法則は、観察と知覚に頼らざる終えない。従って、科学は何処まで行っても近似でしかあり得ないのだ。
 このことは、科学者の間では当たり前のことなのかもしれないが、一般人にとっては、理解されていない概念だと思う。新聞やテレビなどの報道機関の中にもこのことを理解していない人が多いと思う。また、市民団体が有害物質を扱うとき、この部分を無視して訴えている場合が多いと思う。