「[http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20060426/p1:title=総表現社会と村上春樹の言葉]」から

 「ウェブ進化論」を書いた梅田望夫さんのブログで、柴田元幸著「翻訳教室」の中に収録されている村上春樹氏が柴田教授の授業に遊びに来た模様が引用されている。

村上春樹は、真偽のほどはともかく、自作へのプロ(批評家・文芸評論家など)による評価・評論はいっさい読まないと公言している。それで柴田氏が、じゃあ「読者の声は聞かれますか?」と村上春樹に問うた。以下がそれへの村上の回答とさらに続く問答である。

村上 インターネットでウェブサイトをやっていたときは全部読みました。僕がそのとき思ったのは、一つひとつの意見は、あるいはまちがっているかもしれないし、偏見に満ちているかもしれないけど、全部まとまると正しいんだなと。僕が批評家の批評を読まないのはそのせいだと思う。というのは、一人ひとりの読者の意見を千も二千も読んでいるとだいたいわかるんですよね。こういう空気があって、その空気が僕のものを読んでくれているんだというのが。悪いものでありいいものであったとしても。で、一つひとつの意見がもし見当違いなもので、僕が反論したくなるようなものだったとしても、それはしょうがないんですよね。僕は正しい理解というのは誤解の総体だと思っています。誤解がたくさん集まれば、本当に正しい理解がそこに立ち上がるんですよ。だから、正しい理解ばっかりだったとしたら、本当に正しい理解って立ち上がらない。誤解によって立ち上がるんだと、僕は思う。

柴田 そうすると、その批評家一人の声は読者一人の声と同じものだということですか? それともまた別のものですか?

村上 たとえばウェブサイトに批評家がメールを送ってきたとしますよね。そうするとそこにメールが2000あったら2000分の1ですよね。よく書けている評論かもしれないけれど2000分の1。僕がとらえるのもそういうことです。

柴田 たとえばそれが、新聞の書評なんかだと、あたかも一分の一のようにふるまってしまう。そういうことですね。

村上 そういうことです。だから僕がいつも思うのは、インターネットっていうのは本当に直接民主主義なんです。だからその分危険性はあるけれど、僕らにとってはものすごくありがたい。直接民主主義の中で作品を渡して、それが返ってくる。すごくうれしいです。だからインターネットっていうのは僕向けのものなんですよね。

 ジェームズ・スロウィッキー著の『「みんなの意見」は案外正しい』を読んでいると、一貫して、どんな優れた人の意見よりも、多様で、自立した個人から構成される、ある程度の規模の集団の意見の方が正しい事が述べられている。どんなに優れた起業家でも永続して正しい判断を続けられるわけではなく、上記内容を満たした賢い集団のその時々の判断の方が正しいという考えだ。
 村上春樹氏の書評に関する考え方はまさしくジェームズ・スロウィッキー氏の意見と一致している。ただひとりの批評家の意見よりも、多様で、自立した個人から構成されるある程度の読者の書評の方が正しい。
 環境ホルモン訴訟事件ホームページで、今回、被告が提出した裁判に対する意見書が公開され始めている。それを読んでいると、あらためて「色々な人が感心を持っているんだなあ。」と感じられる。
 大学の先生、独立法人の研究所研究員、そして、自分のようなサラリーマンなど。サラリーマンと一括りにしてしまうと問題があるかもしれない。様々な業種の人がいて、営業マンだったり、品質管理をしている人だったりする。つまり、多様性がここにはあるのだ。また、それぞれがそれぞれの立場で自分の意見を述べている。そういった意味では、村上春樹氏の言う「みんな」であり、ジェームズ・スロウィッキー氏の言う「賢い集団」になるのではないかと思う。
 まだ全部アップされていないが、じっくり読んでみたいと思う。意見書は143通にのぼるそうで、その中の一つが自分の意見書ということになる。自分の意見書はそんなに優れたものではないかも知れないが、全ての意見書をまとめると正しい判断をしているのではないかと期待できる。