論理には出発点が必要

藤原雅彦著「国家の品格」第二章「論理」だけでは世界が破綻するから

 論理が破綻する三番目の理由は、「論理には出発点が必要」ということです。
 論理というものを単純化して考えます。まずAがあって、AならばB、BならばC、CならばD・・・・・という形で、最終的に「Z」という結論にたどり着く。出発点がAで結論がZ。そして「AならばB」という場合の「ならば」が論理です。このようなAからZまでの論理の鎖を通って、出発点Aから結論Zに行く。
 ところがこの出発点Aを考えてみると、AからはBに向かって論理という矢印が出ていますが、Aに向かってくる矢印は一つもありません。出発点だから当たり前です。
 すなわち、このAは、論理的帰結ではなく常に仮説なのです。そして、この仮説を選ぶのは論理ではなく。主にそれぞれを選ぶ人の情緒なのです。宗教的情緒をも含めた広い意味の情緒です。
 情緒とは、論理以前のその人の総合力と言えます。その人がどういう親に育てられたか、どのような先生や友達に出会ってきたか、どのような小説や詩歌を読んで涙を流したか、どのような恋愛、失恋、片思いを経験してきたか。どのような悲しい別れに出会ってきたか。こういう諸々のことがすべてあわさって、その人の情緒力を形成し、論理の出発点Aを選ばせているのです。

 藤原氏は、「論理」だけでは世界が破綻する理由として、四つの理由を挙げています。①論理には限界がある。②最も重要なことは論理で説明できない。③論理には出発点が必要。④論理は長くなりえない。この中の③論理には出発点が必要という部分を引用しました。
 いま、環境ホルモン訴訟事件応援団の掲示板で、「事実摘示」が話題になっています。原告が名誉毀損だとしている被告中西さんの雑感の記事のどの部分が事実摘示にあたるのか。これが、この訴訟事件の出発点Aであることは、間違いまりません。ところが、原告側の準備書面を読む限り、この出発点が見えないのです。極端に言うと、原告側の事実摘示は、被告の中西さんの行動そのものがすべて名誉毀損の「事実摘示」だと行っているように読めます。
 藤原氏によると、出発点Aは仮説であり、それを選ぶのが情緒とのことです。ということは、「事実摘示」を仮説として、裁判で原告側、被告側それぞれが論理展開して、名誉毀損があったのか、そうではなかったのかを訴え、裁判官がそれを判断するという形になります。原告が「事実摘示」といっている部分は、藤原氏がいう情緒の部分で、出発点Aではありません。もし、原告側の主張通り、中西さんの行動そのものが出発点Aとなってしまうと、仮説がなくなり、論理展開が不可能となってしまいます。そのため、原告は、環境ホルモン推進派と反対派という対立軸をわざわざ作って、環境ホルモンに反対の意図があって、わざわざ肩書きを間違えたと言い出しています。藤原氏によると、情緒とはその人の総合力だと言っています。原告側は、中西さんの総合力を事実確認ではなく、推測で作り上げようとしています。また、情緒の背景についても独自の主張で、事実を湾曲させています。つまり、名誉毀損にあたる事実摘示(仮説A)をどういう背景で、そしてどうゆう情緒(この場合、中西さんの総合力)をもとにして選んだのかを自分たちの思いこみで作り上げようとしているのです。
 もし、こんな事を裁判所が認めてしまうと、言論の自由は無くなってしまいます(藤原氏は無いと言っていますが・・・・)。まして、インターネットのブログに自由に意見を書いたりすることは出来なくなります。裁判では、自分たちに有利に論理展開を行うものだとは思いますが、事実や背景を勝手に作ってはいけないと思うのですが。