<span style="font-weight:bold;">典型7公害</span>

 改訂2版「eco検定テキスト」(東京商工会議所編著)からの引用。

 産業革命以降の産業の発展にともなって、事業活動や人間活動の拡大により人間の生命・健康・安全や地域自然環境に被害を及ぼす公害問題が発生しました。「典型7公害」といわれ、大気汚染、水質汚濁、土壌汚染。騒音、振動、地盤沈下、悪臭に区分されています。
 現在でも、わたしたちの生活地域における身近な環境問題として、その状況や企業・自治体の取り組みに注目する必要があります。p.42

 典型7公害は、よく引っかけ問題で出題されます。いわゆる間違い探しです。
 第6回の第一問の間違い探し問題で、下記の問題が出題されています。

典型7公害とは、大気汚染、水質汚濁、土壌汚染、騒音、光害、地盤沈下、悪臭の7つを指す。

 答えは、×です。光害とは、都市化、交通網の発達などによる屋外証明の増加、照明の不適切または過剰な使用などにより、まぶしさといった不快感、信号などの重要情報に対する認知力の低下、農作物や動物への悪影響などで、夜空が明るくなり天体観測などがやりにくなっていることも含まれています。p.51
 これは、都市化にともなう環境問題として、注目されていますが、典型7公害に含まれていません。典型7公害の中で、忘れがちになるのが騒音、振動、悪臭です。覚えておきましょう。

<span style="font-weight:bold;">日本の公害問題の始まり</span>

 改訂2版「eco検定テキスト」(東京商工会議所編著)からの引用。

 日本の公害問題は、明治時代栃木県渡瀬川流域で発生した足尾銅山鉱毒事件が原点と言われています。
 1890(明治23)年ころから、渡瀬川上流の鉱山で生じる鉱さい(銅を精製するさいに出るガス)が洪水で渡瀬川にたびたび流出して流域の土壌を汚染し、農作物に大きな被害を及ぼしました。結局、住民は移住することを余儀なくされ、汚染地域は遊水池とする措置がとられました。p.42

 明治時代・渡瀬川流域・足尾銅山・土壌汚染と関連づけて覚えてください。日本最初の公害問題とされています。

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<span style="font-weight:bold;">高度経済成長時代の公害問題</span>

 改訂2版「eco検定テキスト」(東京商工会議所編著)からの引用。

 戦後の重化学工業化が急激に進んだ高度経済成長期(昭和30〜40年代)には、産業公害が社会問題となりました。特に、「四大公害」は、対策実施の遅れや規制法令の未整備のため、地域住民に深刻な健康被害が拡大しました。いずれも被害住民による訴訟に発展し、「四大公害訴訟」といわれて日本国民が注目する社会問題となりました。
 1973(昭和48)年に判決が下された熊本県水俣病訴訟を最後に、「四大公害病訴訟」の裁判は一応終結しました。各訴訟において下された判決は、いずれも原告側の主張を原則的に認め、被告側である企業に対し、相当の損害賠償学の支払いを命じ、厳しく企業責任を追求しています。また、これらの判決は、国などの行政の姿勢に対しても強い反省を促し、その後の日本の環境政策の拡充に大きな影響を与えました。

水俣病
 1956年に熊本県水俣市で発生が報告された健康被害。工場排水に含まれる微量のメチル水銀化合物が水俣湾に排出され、生物濃縮により魚介類にメチル水銀が蓄積され、その魚介類を日常食べていた地域住民に中枢神経系疾患(手足や口がしびれるなどの症状)が発生し死者も出ました。

新潟水俣病
 1965年に新潟県阿賀野川流域で発生が確認された健康被害で、水俣病と同様にメチル水銀化合物が原因であることから第2水俣病ともいわれています。

イタイイタイ病
 富山県神通川流域で1912年ごろから発生し、1955年に報告された健康被害。鉱業所からの排水に含まれていたカドミウムが原因で、カドミウムが体内に蓄積され骨がもろくなり体のあちこちで骨折し激しい痛みをともない、患者が「痛い痛い」と叫ぶことから、イタイイタイ病といわれました。

四日市ぜんそく
 1960〜1970年代に三重県四日市市で発生した呼吸器系の健康被害。石油化学コンビナートから排出された硫黄酸化物などによる大気汚染が原因でした。ぜんそくや気管支炎を発祥する地域住民が多数出ました。p.42-43

 4大公害病もよく出題されます。発生した場所と症状、そして原因物質に関して覚えておきましょう。
 水俣病新潟水俣病の発生原因は、メチル水銀で同じです。新潟イタイイタイ病みたいな引っかけ問題がでることもありますので、注意して覚えましょう。
 イタイイタイ病の原因物質はカドミウムです。カドミウムの過剰摂取により骨がもろくなってしまったのが原因です。水俣病のしびれとは明らかに症状が異なっています。
 四日市ぜんそくは、石油コンビナートから排出されて起きた大気汚染が原因です。このほかにも自動車の排気ガス規制が進んでいなかった昭和30年代から40年代にかけて、交通量の多い国道の近辺で同じようにぜんそくがはやり訴訟が起きた例があります。

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<span style="font-weight:bold;">「公害国会」そして「環境庁」による公害対策強化</span>

 改訂2版「eco検定テキスト」(東京商工会議所編著)からの引用。

 日本各地に発生した公害問題に対して、国は1967(昭和42)年に「公害対策基本法」を制定しました。また、1970(昭和45)年末の臨時国会は「公害国会」と呼ばれ、公害関連法令の抜本的な整備が行われました。「公害対策基本法」改正案、「大気汚染防止法」改正案、「水質汚濁防止法」など公害関連14法案が提出され、すべて可決・成立しました。さらに、1971年、公害対策から自然保護対策までを含めた環境行政を総合的に推進するため環境庁が設置され、現在の環境省に引き継がれています。
 各種法規性、行政機関の整備とともに、公害対策技術もめざましい進歩をとげ、日本は世界最高の公害対策先進国となったのです。p.43

 1970年・公害国会、1971年環境庁設置、と覚えておきましょう。ここもよく問題で出題されます。
 環境庁は、2001年に環境省に格上げされました。

<span style="font-weight:bold;">公害問題から地球環境問題へ</span>

 改訂2版「eco検定テキスト」(東京商工会議所編著)からの引用。

 日本で公害問題に対する対策が強化されつつある一方、世界各地で環境に影響を与える事故や環境被害が発生しました。1972年、ローマクラブが発表した「成長の限界」と「国連人間環境会議」(ストックホルム会議、86ページ参照)をきっかけに、世界が地球環境問題に関心をもち始め、地球環境保全のための国際的な取り組みが本格化したのです。
 地球環境問題への公害対策から地球環境問題への対策を含め、「環境保全」という考え方が人類共通の価値観として明確になったのです。p.43

 ローマクラブ・成長の限界も対で覚えておきましょう。それと、国連人間環境会議のように、何度か登場してくる用語は、重要度が高いと思ってかまいません。86ページもチェックしてみましょう。

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