原子はなぜそんなに小さいのか?

E.シュレーディンガー著「生命とは何か―物理的にみた生細胞 (岩波新書 青版)」からの要約

 原子というものは実際まったく小さなもの。われわれが日常生活で取り扱うものは、どんな一片の物質でも、とほうもなく多数の原子を含んでいる。
 ケルヴィン卿の使った例え。いま仮にコップ一杯の水の分子にすべて目印をつけることができたとする。次にこのコップの中の水を海に注ぎ、海を十分にかきまわして、この目印のついた分子が七つの海にくまなく一様に行き渡ったとする。もし、そこで海の中のお好みの場所から水をコップ一杯汲んだとすると、その中には目印をつけた分子がみつかるはず。
 原子の実際の大きさは、黄色い光の波長のおよそ5000分の1から2000分の1の間にある。
 われわれの身体は、原子にくらべて、なぜ、そんなに大きくなければならないのか?
 われわれの感覚器官はいずれも、多かれ少なかれ身体の緊要な部分を形成し、感覚器官それ自身が無数の原子から成り立っているので、これら感覚器官のどの一つも、ただ一個の原子の衝突で左右されるにはあまりにも粗大すぎる。
 上のようなことは、どうしても必ずそうでなければならないのか?それには何か本質的な理由がひそんでいるのか?この事態を追求して何らかの根本原理に達し、何故に別の事情では「自然」の理法に適合できないのかをつきとめ、理解することができるのだろうか?
 この問いこそ、物理学者が完全に解明することのできる問題なのだ。上で述べた一切の疑問に対する回答は、然りである。

 海の中のお好みの場所からくみ上げた水の中には、100個ぐらいの原子が含まれているはずという。その数は正確に100個だとは限らないが、150を超えることも50以下であることもありそうにない数だという。その偏りは、統計学の\sqrt{n}の法則から100の平方根100\pm10になるという。
 黄色の光の波長は、およそ580nmだから、原子の大きさは約0.1nmから0.3nmぐらい。今でこそナノメーター(10^{-9}メートル)という単位が普通に使われるようになったが、自分が学生の頃はオングストローム10^{-10}メートルという原子の大きさを表す単位が使われていたことを考えると当然この本が書かれた頃もオングストロームを使っていただろう。そうすると、1オングストロームから3オングストロームぐらいの大きさということになる。
 これに対して、我々の体の器官は原子にくらべ非常に大きい。逆の見方をすれば、なぜ、我々の体や器官は、原子にくらべてなぜ大きくなければならないのだろうか?
 このことを物理学者は完全に解明できるといっている。そして、原子にくらべ、我々の体は大きくなければならない理由があると著者は言っている。

前回までのE.シュレーディンガー著「生命とは何か―物理的にみた生細胞 (岩波新書 青版)」からの要約