アイザック・ニュートン(5)

 E.オマール著「不思議な数eの物語」より引用。

 対数級数の発見者が誰かについての混乱は、微積分法の発明直前の時代をよく表している。当時は多くの数学者が独立に同じような着想をもって研究をし、同じ結果に到達していた。その発見の多くが本や雑誌に公表されず、小グループの仲間や学生にパンフレットや個人的書簡の形で伝えられていた。ニュートン自身もこのようにして自分の発見の多くを知らせていたが、それが彼にとって、また広く科学界にとって不幸な結果をもたらすことになるのだった。幸いにも、対数級数の場合は深刻な先取権争いは起きなかった。ニュートンの気持ちがすでにもっと大きな発見(微積分法)に移っていたからである。
 ”微積分法(calculus)”という名前はその二つの主な分野である”微分計算と積分計算”の省略である。(省略)calculusを微分計算と積分計算という限られた意味に用いたのはライプニッツである。ニュートンはこの語を使わず、代わりに自分の発明を”流率法”と呼ぶのを好んだ。
 微分法とは、変動する量の変化、もっと具体的にいうと変化率、を研究するものである。我々の周りの物理現象のほとんどは、動く車の速度、温度計の温度を読み、電気回路を流れる電流のように、時間と共に変化する量を含んでいる。今日ではそのような量を変数、変量などと呼ぶ;ニュートンはそれに流れ(fluent)という用語を使った。微分法は変数の変化率、ニュートンの言い方をすれば与えられた流れの流率、を求めることを目的としている。彼の言葉の選び方から彼の考え方が分かる。ニュートンは数学者であるとともに物理学者でもあった。彼の世界観は動力学的で、すべてのものは既知の力の作用によって引き起こされる連続的な運動の状態にあるとした。もちろん、こういう見方はニュートンに始まるものではない;すべての運動の力の作用によって説明しようという企ては古代に遡る。そして1600年代の初等、ガリレオが力学の基礎を築いた時、最高潮に達した。しかし、おびただしい観測事実を一つの大理論(万有引力の法則)にまとめたのはニュートンであった。彼は1687年に初めて出版された彼の Philosohiae naturalis principia mathematica (自然哲学の数学的諸原理)の中で万有引力の法則について明確に述べた。彼の微分法の発明は、物理における彼の仕事とは直接関係ない(Principiaの中ではそれをほとんど使わず、使うときには推論を注意深く幾何学的な形式に整えていた)が、動力学的な宇宙観に影響されて微分法を発明したことは疑いない。

 万有引力の法則を記述するのに微分法を使用していないというのは意外だった。後述の記載によると1669年には同僚であり、恩師でもあるアイザック・バローに微積分法に関する角術論文を送っている。にもかかわらず、微積分法の発明を公に発表したのは1704年だったという。
 分有引力の法則を発見したときには、すでに微積分法をニュートンは使用していたのではないだろうか?しかし、まだ体系として完成度が低かったために、論文には使用しなかったのではないかと推測してしまう。
 それまでに知られていた膨大な実験結果や計測結果を体系化するというのは、天才でなければ到底成し遂げられないことだと思う。そして、微積分法という新しい発想があったからこそ、それを成し遂げられたのではないだろうか。
 今のように、インターネットがあって、情報収集が簡単にできる時代ではなかった。その中でコツコツと情報を集め、解析していく作業というのは大変だったろうと思う。自分の大学生時代を振り返ってみると、状況はその頃とほとんど変わっていなかったようにも思える。確かにテレビやラジオ、そして出版物もあり、ニュートンの時代に比べれば圧倒的に情報量が多かったが、多角的な情報を入手することは困難だったような気がする。自分の大学が地方大学だったこともあり、大学の図書館にあるものが全てだったような気がする。
 内容とは全然関係ないのだけれど、今日は数式がなかったので入力が非常にスムーズに要った。tex記法は便利だが、やはり面倒くさい作業になる。