文化の壁

 ジェフリー・サックス著「貧困の終焉―2025年までに世界を変える」から引用。

 政府が国を前進させようと努力しても、文化的な環境が開発の妨げになることがある。たとえば、その社会の文化的・宗教的な規範が女性の役割を制限している例は多く、そうなると国民の半分が経済的・政治的権利を奪われ、教育の機会もないということになる。つまり、国民の半数が国全体の開発に寄与できないまま放置されているのだ。女性の権利と教育の機会を奪っておくと、やがて重大な問題が続出するだろう。おそれく最も重要だと思われるのは人口の問題で、高い出産率を低いレベルに移行させるプロセスが遅れるか、あるいは完全に阻害されることである。貧しい家庭ではあいかわらず6人か7人の子供がいる。女性の役割がおもに出産と子育てだけだと思われているからである。女性は教育も受けれられないので、労働力としてほとんど選択肢がない。そのような社会では、往々にして女性の社会的立場はされに悪くなり、完全な貧困のうちに取り残されて、そこから脱出する希望さえもない。
 同じような文化的なバリアは、宗教および民族的なマイノリティにもあてはまる。慣習によって、ある種のグループが公共サービス(学校、医療施設、職業訓練所など)から排除されることもある。マイノリティは大学への入学や公職につく機会を拒否されるかもしれない。地域社会ではいじめにあい、商売をボイコットされたり、財産を壊されたりする。ひどくなると、東アフリカにおけるインド人コミュニティの場合のように、大規模な「民族浄化」運動が起こり、生命の危険にさらされることさえある。

 中国などの一部の国で、男女の比率が崩れはじめているところがある。貧しい農村地域で働き手を確保する、男系子孫を残すという風習が、幼い女の子の寿命を縮めているらしい。もし、働き手や後継者を選ぶのであれば、別に女性であっても構わないのではないだろうか。男性にこだわる必要は無いと思う。血筋を残すということにあまりにとらわれすぎていると不平等な社会が生まれる可能性があると思う。
 東アフリカにおける民族浄化運動については、まったく知らなかったのだが、往々にして、民族浄化などが問題になる場合、この血筋がキーワードになっていることが多い。19世紀初期から中頃までにヨーロッパやアメリカで起きた特定民族排除でもこの血筋論議が民族の優劣に利用された。そして、この時期はまだヨーロッパやアメリカでも女性差別が平然と行われていた時代だった。家系を維持するということは、生物としての人間の営みのなかから生まれてきたのだろうか。進化の過程で強い種を残すということと、家系を維持するというのは同じことではないと思うが、どうも結びついているような気もする。タブーかもしれないが、家系を維持するという考え方を見直さない限り、女性差別問題は解決しないような気もする。ただ、男女の平等は、貧困を終わらせる第一歩のような気がする。